:沙也可のこと

秀吉の命令で朝鮮に攻め入った文禄・慶長の役で、朝鮮側に寝返った日本武将の沙也可のこと。もちろん沙也可は日本名ではありえないので、日本名を朝鮮名風にしたものか、偽名を名乗っているのかくらいしか推測できてなかったのだけど、その辺を推測したところを見つけた。まず、次の三つの条件があるそうだ。

  1. 加藤清正の先鋒武将
  2. 朝鮮に鉄砲を伝えた
  3. 中華文物を崇敬していた

それと、加藤清正の配下だったというのはわかっているのだけど、朝鮮側資料の言うように義や礼のみで、寝返ったとも考えにくく現実的な背景もあったはずと言及しているのも説得力あるよな。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/004/re_004_040403.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/004/re_004_040410.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/004/re_004_040417.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/004/re_004_040501.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/004/re_004_040508.htm
沙也可の説は次の三つのようで、三番目が一番確かに根拠あるような気がする。上記二番目の鉄砲の条件は、この時代の日本の軍容には必ず鉄砲があったので特に大きな条件とは思えないな。

  1. 司馬遼太郎説】:「日本名は沙也門(さえもん)に相違ない」により、清正配下か肥後国人衆の左衛門の誰か
  2. 【神坂次郎説】:「雑賀と名乗ったのを聞いた朝鮮の人々が、沙也可と表記したのだろう」により、鉄砲を伝えた記述にもあるため鉄砲に長けた雑賀衆(この場合は傭兵として清正勢に与力?)
  3. 【丸山雍成説】:書簡や従軍記により追跡し「陣立書に見える清正の武将が、朝鮮側に寝返った、という記録はない。でも途中で行方不明または戦死した武将がいた場合、投降の可能性があるのではないか」により、元筑前国人衆で清正与力になった原田信種

三番目の根拠の詳細はリンク先を見てもらうとして、故郷の失地回復のチャンスもなくなったためという理由もわかる気がするなぁ。そして、沙也可の謎は、「日本側に身元を知られぬための変名」ということで、「故郷の怡土、志摩のシンボルである可也山(かやさん)(標高365メートル)を思い浮かべ、逆さまに読んだのではないか」と推測しているのは、大胆かつ面白いな:-)