:河内長野〜奈良高取城

タイヤ交換をしたので、少し慣らすために天気もいいし軽くドライブをしようと、どこにいくか?と思い、先日“のぼうの城”を読んだので、北条氏にまつわる場所に行きたくなり、河内長野市に行くことにした。秀吉の小田原攻めの後に、北条氏は解体されてしまい、一門は切腹したり高野山に入ったりした。その後、秀吉に許されて、名跡の家を残したいという思いもあるだろうが、北条氏河内長野に一万石の所領を得て、明治まで家は存続したそうだ。
一万石の大名は、城は持てずに陣屋で政務を取ったそうで(狭山の方らしい)、実際に陣屋跡は残っていない。なので、江戸期を伝える資料館に足を運んでみた。茅葺の家が綺麗だなぁ。


金毘羅さんの札がたくさん、この辺りも信仰あったのだなぁ。

鐘つき台から見た、このアングルがいいのだけど…、ポール邪魔!w

「おやまが綺麗」、と“大誘拐”の刀自が言っていた言葉を思い出すな。私も盆地育ちなので人工物の色よりも緑が多いところにくるとなんか安心できるなぁ。“大誘拐”の舞台はここからもっと南の和歌山龍神村辺り。あそこもまた行ってみたい、いい温泉あるし。

この辺りは、ここを治めていた北条氏の鉄砲衆として村人を重宝していたそうだ。資料館には当時の火縄銃があったりした。個人的には、北条氏の痕跡を少しでも感じたかったので何かないか資料館をいろいろ見回り、一点だけ発見(^^)
御用札になります、北条氏の家紋の三つ鱗紋が(^^)
この家紋の謂れは、戦国期の北条氏からでなく、鎌倉幕府の執権北条氏からです。初代執権が江ノ島弁財天に祈願したときに、美女変身した海に棲む大蛇が神託を与え、三枚の鱗を残したことから始まったそうです。


さて、河内長野市を後にして、大阪と和歌山を分ける峠の紀見峠にきました。ここは、古代から高野山詣をするときに通る峠になります。私が訪れたのは、戦国時代末期の大阪夏の陣の前に、真田幸村高野山から脱出し、深夜にこの峠を通って、大阪入りしたという話からの史跡巡りです。
現在は、舗装した道路もあり雰囲気は変わっていますし、トンネルもできて、この峠道自体もあんまり使われていません。

でも、ちょっと下るとこのような雰囲気の山道があったりします。深夜にこの道を行くのは辛いだろうなぁ^^;

金剛山と葛城山の点線と、高野山から北に向かう実線の交差した辺りがこの峠になります。


最後に、高取城にやってきました。場所は石舞台遺跡で有名な明日香村より少し南にあります。司馬遼太郎さんが好きな三山城の城の一つです、郡上八幡城は去年行ったので、あと備中松山城だけか。一方、日本三大山城は、美濃岩村城、大和高取城、備中松山城ですので、私はまだ一つ目ですね^^;
とにかくこの城は、スケールがでかいです(^^; 500m級の山頂に、百万石レベルの巨城なんですからw 車で登っても6,7kmあるし、ここまで長大な山城は初めて^^;

急な石垣がこのように天を突くようにそびえていました。一番上の駐車場から登るとこのルートになります。
駐車場のようなスペースは、高取城の登る道路の一番最後の突き当たりにあります。十分駐車スペースもありますし、車の方向も変えることも可能です。深い山の道を結構登るので、その辺が不安になってしまうんですよねぇ、私もそうでした(^^;


話は逸れますが、ちょうど私が駐車場に着いた時に、車やバイクも一台もなく登山装備でもなく荷物一つ持っていない人が降りていきましたが、なんだったのでしょう^^; 何かの本で読んだ、和歌山の山中には怪がいるという記述が脳内で回って正直怖かったです^^;;; 単に軽装で登ってきた人なんでしょうが…?

石垣の段数(下から数えて天守閣まで8,9段?)と、各々の石垣の高さが半端じゃないです^^;近世では山城よりも治世を重視して平城が主流になったそうですが、この高取城は江戸期にも使われていたようです。司馬遼太郎さんによると、普段は不便だけど、近畿で乱があった場合に備えた徳川家の配慮のようですね。



本丸から見た吉野の方面。天気が悪くなってきました…



天守閣跡から見た西側の夕焼け。このとき18時くらい。

本丸の造りが面白いです:-)

こちらは天守閣跡になります。

うわぁ、石垣が綺麗です(*^-^*) 十分萌えれる要素です♪

現在は城跡に樹木が茂っていますが、城があった当時は木もなく、麓の村々から白亜の巨城が見えたそうです。

登るときには気づきませんでしたが、お城の瓦の破片がたくさんありました。

城の守り手が誰もいなくなった中、花だけが主人のように咲き誇っていました:-)